2013年3月11日月曜日

誰が考えついたのだろう。



のり子さんの折鶴が美術館に飾られることになった。

10年程前にのり子さんの家を訪問したときに、案内された2階の一室が千羽鶴で埋め尽くされていたのに驚いたことを思い出した。お母さんは、「捨てるわけにもいかないから」と言っていたが、50年もの間とりためていた鶴は10万を超え、東京都美術館の大きく区切られたスペースに圧倒的な迫力で展示されていた。ダウン症は20歳を超えて生きられないと言われていた時代、のり子さんは就学免除になり学校に通うことができなかった。

過日、もうすぐ定年を迎えようとする年配の夫婦が施設を訪ねてきた。新聞でみぬま福祉会を知ったという。東京に暮らす夫婦の息子には重い行動障害があり、現在、児童施設に入所しているが、年齢超過となりあと3年で施設を出なければならなくなったと話した。施設からは、山形にある施設への入所を勧められたが断った。家に引き取って日中通う場所を探すという母親を「無理だよ」と父親が気遣っていた。
何故断ったのですか?と聞くと母親は「かわいいから」と答えた。
一人一人が大切なのだというシンプルな答えだった。

みぬま福祉会は1984年に「どんな障害を持っていても希望すればいつでも利用できる施設づくりを進める。」ことを理念にして発足した。入所の決定は職員会議に任されたが、「断る理由でなく、受け入れる条件を話し合う。」ということにしていたため、実際にはどんな場合でも入所が決定した。困難であればあるだけ、受け止める条件作りは大変になるが、その分仲間や集団や社会を発達させる力になると考えた。
希望があれば作業所を作り、足りなくなればまた作り、困難な仲間の受け入れに人手が足りなければ「増やそう」と決めてその分の資金集めを始めた。時折、鈴木先生(初代理事長)に「たいへんだ」と訴えると、決まって「必要なものは必要でしょ」という言葉が返ってきた。
一人一人が大切だという答えだった。

困難な人や新しい願いを受け入れるということが、今いる仲間たちにとって不利益になると考えず、人間を大切にする具体的な方法であると考えていた。大変さにではなく必要に目を向けて、実現するために力を合わせ、新たな問題を成長の契機とした。困難はしばしば「宝物」と呼ばれていた。
30周年の節目を前に開かれた東京都美術館の作品展はなんだか夢のように過ぎた。わりと忙しく期間中動物園に立ち寄ることができなかったのが心残りになったが、普段一緒にいる仲間たちが、やたらに評価されていたり、多くの人を励ましているということを身近に感じることができてうれしかった。
出口近くの壁には、手形をくりぬいたような形の紙が目線から天井の方に向かって貼られていたが、3日目になって貼っているものが画鋲でなく、画鋲を壁に刺し、画鋲の頭の平らな所に紙を置きそれを小さな磁石で押さえて止めてあることに気が付いた。集の職員に驚きを伝えると、作品を大切にする方法だと教えてくれた。宮本さん(集の責任者)は、「穴をあけるわけないじゃないですか」と言ってふくれていたが、みぬま福祉会が素直に進歩していると思い、「必要が」あちこちで同じように花開いていると感じてうれしかった。

社会福祉法人みぬま福祉会理事長 高橋 孝雄